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ひたちなか海浜鉄道を走る旧型気動車を求めて②
2012.09.26.Wed.23:21
自転車をこいで、まずは機関区裏側に向かいます。

機関区裏側にはケハ601、もと鹿島臨海鉄道キハ20形の廃車体が置いてあります。
写真のケハ601は、日本初のステンレス気動車として新潟鉄工所で製造されました。国鉄のキハ20形などと同様のエンジン(DMH-17C)を搭載していましたが総括制御が出来ない仕様のため、専ら単行運転用として使用されました。末期には制御回路を通す改造を実施した上で、両端をもと羽幌炭鉱車やもと留萌車の間に挟まれ、付随車扱いとして使用されていたこともあるようです。1992年に営業線上から姿を消し、湊機関区の裏に車体のみが置いてあります。
文献によると、「踏切事故に遭遇し、勝田側(写真手前)の前面に当時の補修痕を見ることができる」とあるのですが、見た限りではわかりませんでした…
(ちゃんと見ていなかったかも)
ケハ601の近くでチョロチョロと写真を撮影していると、ケハ601の管理者(応援団の方?)から「中を見ていくかい」との問いかけが!
ここでご厚意に甘えて、ケハ601の車内を見せてもらうことにしました(ありがとうございます)

ケハ601の内装です。以前は写真や絵画の展示も行っていたそうですが、現在は終了し、毎週日曜日を中心に車内を公開している、とのことでした。
他にもケハのことやキハ20の廃車体のことなど、貴重なお話を伺うことができました。

構内に入ったついでに…と、廃車体(キハ204+キハ202)も撮影しておきます。
これらはもと鹿島臨海鉄道キハ2000形を茨城交通時代に譲受したもので、キハ201~キハ204の4両が在籍していました。鹿島臨海鉄道時代に前照灯と標識灯の移設が行われ、前面の印象が大きく変わりました。この4両は2006年までに全て廃車となってしまいましたが、廃車後は阿字ヶ浦や湊機関区構内に廃車体として野ざらしになっています。
キハ221と一緒に放置され、夏場の海水浴客の更衣室として活躍した?阿字ヶ浦の廃車体(キハ201)は2009年3月末に解体されたようですが、湊機関区に放置された残る3両は現在でも残っています。

2009年頃に首都圏色となったこちらの廃車体(キハ203)は応援団の方が車内の手入れをしているようです。
応援団の方の話しによると、以前から親しまれていたタラコ色に塗装した、とのことでした。
(この車両にこの塗装は、賛否両論がありますが、湊機関区のアクセントとして異彩を放っていますよね)
ここで湊機関区を後にして、ひたちなかで最も有名な撮影地であろう、中根~金上間へ向かいます。
那珂湊から1駅ではありますが、駅間距離が長いこともあって20分くらいかかりました。
適当な場所を探して、列車を待ちます。

勝田方面からキハ222がやって来ました。
撮った写真を確認してみると、サボの行先が「那珂湊」に…
このまま車両交換をしてしまうのか?と不安になります。

那珂湊交換でミキ300-103がやって来ました。
周囲の田園風景といい走っている車両といい、この構図だと、現役時代の三木鉄道とあまり変化がない…か。

案の定、キハ222の運転は那珂湊で終了したようで、キハ3710-01が代わりにやって来ました。
後追いで撮影したのですが、背景に見える高速道路がかなり気になるかも・・・
と、このあたりで、高校生の同業者さん?と会いました。
旧型車両が目当てで来たのかと思いきや、鉄道ファンではなく、写真が好きな方でした。着ているジャケットからレンズや三脚などカメラグッズが次々と出てきます。これにはびっくり!
そんな彼は鉄道写真を撮る友人の影響を受け、今日ひたちなかに来たとのことでした。

彼の一眼レフを借りて撮った写真がこちら。
全体的に薄暗くなってしまいましたが、初一眼ということで上手くいくかどうか心配していた構図・ピントともに問題ない仕上がりに。本日1番の出来かも。
今使っているネオ一眼を卒業して、早く一眼を買いたい、と思ったのでした。
この辺であたりが暗くなってきたので、那珂湊まで自転車で戻り、キハ3710やミキ300-103を何度か乗った後で、家路につきました。
今日は色々な方からお話を聞くことができ、撮れた写真は少なかったものの充実した一日となりました。
(おわり)
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夏休み中の旅行記みたいなものについては、近いうちに公開しようと思います。
少なくとも、1日1記事にまとめて公開する予定です。お楽しみに。

機関区裏側にはケハ601、もと鹿島臨海鉄道キハ20形の廃車体が置いてあります。
写真のケハ601は、日本初のステンレス気動車として新潟鉄工所で製造されました。国鉄のキハ20形などと同様のエンジン(DMH-17C)を搭載していましたが総括制御が出来ない仕様のため、専ら単行運転用として使用されました。末期には制御回路を通す改造を実施した上で、両端をもと羽幌炭鉱車やもと留萌車の間に挟まれ、付随車扱いとして使用されていたこともあるようです。1992年に営業線上から姿を消し、湊機関区の裏に車体のみが置いてあります。
文献によると、「踏切事故に遭遇し、勝田側(写真手前)の前面に当時の補修痕を見ることができる」とあるのですが、見た限りではわかりませんでした…
(ちゃんと見ていなかったかも)
ケハ601の近くでチョロチョロと写真を撮影していると、ケハ601の管理者(応援団の方?)から「中を見ていくかい」との問いかけが!
ここでご厚意に甘えて、ケハ601の車内を見せてもらうことにしました(ありがとうございます)

ケハ601の内装です。以前は写真や絵画の展示も行っていたそうですが、現在は終了し、毎週日曜日を中心に車内を公開している、とのことでした。
他にもケハのことやキハ20の廃車体のことなど、貴重なお話を伺うことができました。

構内に入ったついでに…と、廃車体(キハ204+キハ202)も撮影しておきます。
これらはもと鹿島臨海鉄道キハ2000形を茨城交通時代に譲受したもので、キハ201~キハ204の4両が在籍していました。鹿島臨海鉄道時代に前照灯と標識灯の移設が行われ、前面の印象が大きく変わりました。この4両は2006年までに全て廃車となってしまいましたが、廃車後は阿字ヶ浦や湊機関区構内に廃車体として野ざらしになっています。
キハ221と一緒に放置され、夏場の海水浴客の更衣室として活躍した?阿字ヶ浦の廃車体(キハ201)は2009年3月末に解体されたようですが、湊機関区に放置された残る3両は現在でも残っています。

2009年頃に首都圏色となったこちらの廃車体(キハ203)は応援団の方が車内の手入れをしているようです。
応援団の方の話しによると、以前から親しまれていたタラコ色に塗装した、とのことでした。
(この車両にこの塗装は、賛否両論がありますが、湊機関区のアクセントとして異彩を放っていますよね)
ここで湊機関区を後にして、ひたちなかで最も有名な撮影地であろう、中根~金上間へ向かいます。
那珂湊から1駅ではありますが、駅間距離が長いこともあって20分くらいかかりました。
適当な場所を探して、列車を待ちます。

勝田方面からキハ222がやって来ました。
撮った写真を確認してみると、サボの行先が「那珂湊」に…
このまま車両交換をしてしまうのか?と不安になります。

那珂湊交換でミキ300-103がやって来ました。
周囲の田園風景といい走っている車両といい、この構図だと、現役時代の三木鉄道とあまり変化がない…か。

案の定、キハ222の運転は那珂湊で終了したようで、キハ3710-01が代わりにやって来ました。
後追いで撮影したのですが、背景に見える高速道路がかなり気になるかも・・・
と、このあたりで、高校生の同業者さん?と会いました。
旧型車両が目当てで来たのかと思いきや、鉄道ファンではなく、写真が好きな方でした。着ているジャケットからレンズや三脚などカメラグッズが次々と出てきます。これにはびっくり!
そんな彼は鉄道写真を撮る友人の影響を受け、今日ひたちなかに来たとのことでした。

彼の一眼レフを借りて撮った写真がこちら。
全体的に薄暗くなってしまいましたが、初一眼ということで上手くいくかどうか心配していた構図・ピントともに問題ない仕上がりに。本日1番の出来かも。
今使っているネオ一眼を卒業して、早く一眼を買いたい、と思ったのでした。
この辺であたりが暗くなってきたので、那珂湊まで自転車で戻り、キハ3710やミキ300-103を何度か乗った後で、家路につきました。
今日は色々な方からお話を聞くことができ、撮れた写真は少なかったものの充実した一日となりました。
(おわり)
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夏休み中の旅行記みたいなものについては、近いうちに公開しようと思います。
少なくとも、1日1記事にまとめて公開する予定です。お楽しみに。
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(吉田)